「失敗したらどうしよう」「怒られたくない」「否定されたくない」「認められたい」「自由に生きたい」「自分って本当にポンコツだ」これが、私のすべてです。
Profileではかっこいいこと書いていましたが、本当の私はこちら側です。
ただその現状から目を背けて生きるのは嫌なので、そんな自分から脱却し時間にもお金にも縛られずに生きたい。そんな生き様を達成するための過程をここでは残しています。
改めて初めまして、れんです。
よくこのページにたどり着きましたね!
このページでは、私の超詳細プロフィールを紹介します。(マニア向け)
それではいきましょうか。
れんの基本情報
生年月日:1998年5月
出身地:京都府
職業:IT営業(製造業向け)
学歴:小学校・中学校は地元の公立⇒東海大学付属相模高等学校⇒国士舘大学
趣味:グルメ、映画、運動、ゴルフ?、読書?、写真?、勉強?(探索中)
部活:野球部(小学校3年生~大学4年生まで)
小学生の時
野球を始めたのはこの頃です。活発で体を動かすのが好きだった私は、当時サッカーか野球か迷っていました。両方体験練習に参加した結果、サッカーのセンスは皆無だったため野球に決めました。
始めたきっかけはダイエットやけど・・・
そうです。少し太ってきた私はダイエットを目的に野球を始めました。ただ、今になって思うと部活始めたからといってそんな簡単にダイエットなんてできるはずがありません。(笑)
ほっぺたに何か詰めてるのかと思うくらい顔がパンパンだね(笑)
むしろ野球始めてからのほうが太ってない??(笑)
そやねん。運動量が増える=痩せる、ちゃうねん。
運動量が増える=お腹減る=食べる。の因果関係でめっちゃ太ったで(笑)
ただ野球の技術は、割とチームでもうまい方でキャプテンを務めていました。区選抜にも選ばれるほどだったので、区の中でも有名な方だったとは思います。完全にお山の大将です!!(笑)
中学生のとき
中学生では、中学校の野球部には入団せず硬式のクラブチームに入団しました。高校野球は硬式になるので、中学生の段階で慣らしておいて高校進学したかったというのが大きな理由です。
まず初めに入団式のようなものがあり、新入部員が先輩や父兄の前で自己紹介する機会があります。
れんは大勢の父兄の前でなんて決意したの?
メジャーリーガーになります!!!
皆には笑われていたみたいですが、今でも両親はその時の私の発言について「大勢の前で恥ずかしがらずに自分の夢を発言できるのは凄い」と言います。私はまったく覚えてないですが。
そんな大物発言をした後の私の中学野球生活は、どうだったのでしょうか。
自分で言うのも変ですが、入部した段階で同期の中でも上手な方だったと思います。ただ自主練などは全くせず、よく父には「素振りしろ」と言われていました。
当時は素振りなんて面白くなかったので、父には「うん」と言って10スイング(5分)程して、静かに自分の部屋に帰っていました。
中学2年生の時には、腰椎分離症を発症し約1年間野球ができませんでした。その時何をしていたかというと、グラウンド側にある談話室のような所でみんなが練習している中、同じ怪我人たちと(卓球・マンガ・押入れで昼寝・鬼ごっこ)等をして遊び、全く野球なんてしていませんでした。
中学3年生になるとそろそろ高校進学について考える時期です。
もちろん入部当時、大物発言をしていた私は「強い高校に行って寮生活をしたい」と思っていました。寮生活がしたかった理由としては、家にいると贅沢な環境に甘えてしまうので、より厳しい環境で己を鍛えて甲子園に行きたかったからです。
怪我で1年間野球ができませんでしたが、中学3年生の時には復活し必死に野球をしていました。
進路については関西の強豪校とも悩みましたが、最終的に神奈川の東海大学付属相模高等学校に決めました。理由は、入団テストに行った際に少し高校生の練習を見る機会がありました。その時に、選手のレベルの高さや本気で甲子園を目指す姿に感動したためです。
入団テストに行った時に高校の監督から「全国№1キャッチャーが来るから内野も練習しといて」と言われており、内野をやったことのない私は本当にやっていけるのか?とも悟りました。
絶対にレギュラー取って甲子園に出てやる。
高校生のとき
ここからは相当充実するから気合入れなおしてや!!!
ここからは、私の高校3年間の物語について語ります。
高校1年生
レギュラーを獲得して甲子園優勝を目指す、高校生活がスタートしました。
今までのチームではずっとお山の大将だった私ですが、同じ同期達と実力を比較したときにレベルの差に驚愕しました。推薦入学組は約20名ほどいますが、その中でも1番2番を争うほど下手くそでした。
待って。こんなにレベル高いん?
足早いし、肩強いし、バッティングえぐいやん。。。
それはそれは当たり前で、甲子園常連校の推薦入学組に下手くそがいるわけありません。みんなチームでは一番うまい選手で、所属リーグや県でトップレベルの選手の集まりです。
そんな中私は、入学1週間にして高校野球生活に終了フラグがたちました。
入学前に監督が言われていたように、同期には全国№1キャッチャーがいるため、キャッチャーをやってもその人の後ろでした。もちろんその上には、2年生3年生がいるので、チームで見ると一番下のキャッチャーでした。
なので内野もやりました。外野もやりました。しかしながら、どこ守っても下手くそでやっぱりキャッチャーしか守るところがありませんでした。
まず同期に勝たへんと、遥々神奈川に野球をしに来たのに一生応援スタンドで終わってまう。
誰と比較しても私より下手な選手はおらず、常に劣等感を感じていました。あんなに意気込んで入学したのに、レギュラーになれる見込みはなく真っ暗の中を歩き続けるのは本当に苦しかったです。そして、学校のクラスの中でも「こいつ野球下手くそらしいよ~」なんてもし言われたらとても恥ずかしくてたまらないので、心の中では「絶対にレギュラー取ってやる」と燃えていました。
その時またしても親が登場し、私に助言してくれます。
「変に飾らずチームで自分が一番下手くそやと思って、がむしゃらに捨て身でやったらいいねん」と。部のメンバーとの共通目標は「甲子園優勝」です。しかし全員レギュラーを目指すライバルなので、練習では蹴落としあいです。その中こういった言葉は自分にとって本当に励みになりました。
失うものは何もないし、やれるだけやるしかないな。
高校2年生
親の助言もあり1年生の冬は必死でした。
失うものはもう何もないということで、上達してレギュラーをつかみ取るために、いっぱいバットも振ったし、いっぱいボールも投げたし、いっぱいご飯も食べたし、いっぱい自主練習しました。
ただがむしゃらに取り組むだけでは他の人と変わらないので、弱者な私は頭を使い策士になる必要があると感じました。
「自分の強みをどう伸ばす?自分はチームに何を求められている?どの立ち位置につけるのがいい?」
練習についていくのはもちろん大変やったけど、誰よりも練習した自負はある。
同時に勝負に勝つために頭もめちゃめちゃ使ったで。
その結果、2年生の春の大会では背番号12番を付けることができました。1年の秋の大会ではメンバー外だった私にとっては大出世です。(もちろん二桁で満足はしていません。)
そこから夏の大会に向けて残り3か月、背番号2をかけた戦いを先輩と行いました。ただ、力及ばず2年生の夏も春の大会と同様に背番号は12番でした。
そして、2年生で2番手ながら臨んだ神奈川県大会では優勝。
そしてさらに、第97回全国高校野球選手権大会優勝。
この経験をするために京都から野球留学に来たので、本当に最高でした。先輩方にはすごい経験をさせていただき、とても感謝しています。と同時に、自分たちの代でも同じ結果を残したいと強く思いました。
当時のことを少し振り返ると、圧倒的な技術を持つ先輩方に付いていくのに毎日必死でした。その中で、自分が生き残れるスペースはどこなのかを常に考え、捨て身の覚悟で練習に取り組みました。
家族・友人・クラスメイト・先生、みんなが自分の事のように喜んでくれたのが、今でも鮮明に覚えています。
野球おもろ。野球って最高やん。この時は、そう思っていました。。。
高校3年生
偉大な先輩方が卒業し、私も高校3年生になりました。最後の年です。私は2年生からベンチ入りしていたということもあり、副キャプテンに任命されました。
神奈川3連覇!甲子園連覇!を目指すぞ!!!
と意気込んでおりましたが、現実はそんなに甘くありません。昨年優勝したときのレギュラーは全員3年生で、下級生は誰も試合に出ていなかったのです。
ということは、甲子園優勝を経験はしているが、試合経験はあまりない状況です。つまりスーパーサブなので、自分たちが試合に出て戦うことには全く慣れていないということです。
昨年の圧倒的な光を前にして、自分たちの代ではあまり試合にも勝てず、史上最弱という声もありました。
副キャプテンの立ち位置としては、キャプテンを支える立場です。チームを俯瞰して、全体が進むべき方向へ統制を図る。ベクトルが違う選手がいたら正しい方向へ正し、勝つための組織を構築することです。
具体的にどういったことに取り組んだの?
とにかく視野を広く持ち、メンバーと双方向に会話し徹底的に話を聞くこと。
私の性格上、上から徹底的に指示を出し指揮を執るというのはあっていませんでした。そのため、下級生ともしっかりとコミュニケーションをとり、上から統制を図るのではなくメンバー自らが動機づけを高められるようにすることを意識していました。
背景には私も上から「あれやれ、これやれ、こうしろ」等としつこく命令されて、いい方向に進んだ試しがなかったからです。短期的には行動するかもしれませんが、それでは自主的に何も取り組まなくなります。メンバー自らが動機づけを高められることができれば、長期的にいい組織で持続するのではないかと。
そんな私はどうだったのかというと、指を怪我したり肘を怪我したりとボロボロです。最後の夏の大会ではレギュラーとして戦いましたが、直前に肘を怪我していたこともあり満足な結果を残すことはできませんでした。
1年間目標にしていた、「神奈川3連覇、甲子園連覇」の目標は達成できませんでした。
今でも時々夢で、「この最後の夏の大会」がフィードバックされます。負けた敗因はすべて私だと思っているので、見る夢は本当に苦しく毎回うなされます。
本気でやってたんやな。
この高校野球を通じて監督から学んだことは本当に多いです。
野球の技術面だけではなく、人としての考え方や人間性を大変重要視していました。前のProfileにもある一日一生もこの監督が常々発していた言葉です。
こういった経験が今の私を形成しています。そしてプロ野球選手を目指し大学に進学しますが、ここでの経験が今後の私の価値観を大きく変えるきっかけになります。
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